平 重盛 が建てた小松寺
萬年山、小松寺は平家一門の中で唯一忠孝の道をあやまらなかったと、
武将の鑑みのように後世史家が称えた内大臣、左近衛大将、平重盛の
創建にかかるお寺といわれ、一時代は臨済安国寺末であった。
今日お祀りしている本尊は、観世音菩薩である。
安元元年(1175)の春のこと、小松内府重盛は平家一門の図領である
父清盛が、一門の守護神として改築造営した厳島神社へ参詣の途中
に鞆の津に船を漕ぎ寄せ、先づ渡守の神に海上安全の旅を祈ったの
であった。
その時重盛は西北の彼方に聳え立つ五層の宝塔にふと目をうばわれ
歩みは自とその方向に向かった。
そこには大同元年(806)に高僧の最澄(のちに伝教大師)が帰朝第一
に鞆の地をえらんで創建されたという正覚寺、静観寺という巨刹(大き
な寺)で、その梁題(山門に掲げた文字)には「修一心三観之地也」と
なって居り、寺庭は広く七堂伽藍は竝び建ち、宝塔は中天に高く眺め
られた。
内府は静観寺の偉容にうたれ、にわかに悟るものがあったのか?
厳島に下る予定を変更して鞆に逼留し、自作護身の阿弥陀仏を祀る
一宇(小さな寺)を建立して静観寺の支院とした。
そして予定の船旅、厳島に向う前日のこと、自ら寺庭に小松を植え、
「若し、この松が天に伸びれば平家は栄えるであろう。地に逼えば平
家は衰退するであろう!!」・・・・・・と予言的な言葉を残して立ち去ら
れたと伝えられている。
寿永2年(1183)の年、平家一門は源氏の大軍に遂われて都落ちを
余儀なくされた。
すでに病死の内府のその二男、新三位資盛は、一族より離れて一人
鞆の地に上陸して亡父の菩提を弔うために5、6日逼留した。
また一門の都落ちに後始末に居残った平貞能は、京都の重盛の墓に
に詣り、遺骨を高野山に収め、遺髪をはるばる鞆の小松寺に埋めた。
・・・・・・以上の物語が護国院、萬年山小松寺の前歴である。
重盛が七堂伽藍の偉容にうたれた当時の静観寺は創建よりすでに
370年も経過したに拘わらず法燈は栄えていたが、それより160年
をくだる元弘、建武(1335年ごろ)には本末ところを替え、小松寺が
盛大となり草谷一体の山麓を占めて伽藍も宏大であったという。
建武3年(1336)1月のこと、建武政府と決別した足利尊氏は、新田
義貞の率いる南軍を箱根、竹之下(静岡県)の戦いでうち破り、勢いに
乗じて帝の在ます京の都に攻め入った。
このとき、後醍醐帝の勅命を受けた奥州の北畠顕家は、義貞の残兵
と協力してこの度は足利勢を丹波に追い詰めて敗退させたのであった。
延元元年(1336)2月草々、敗軍の将尊氏は九州で挙兵のため京都を
脱出し、西下の途中鞆に上陸して小松寺に宿陣し、輩下の武将、今川
刑部少輔範満を平村の室城(元禄検知の時命名された)に駐めて備
南の地一帯の海陸を監視させた。
それより4年後の暦応3年(1340)には、後世で鞆合戦で名づけられた
激戦が大可島(今日の要害)を舞台に桑原伊賀守の死守となるので
あるが、この大可島を襲撃した軍勢は小松寺を本陣とする北軍の3万
の将兵であったからたまらないのは小松寺であった。
すなわち、合戦十数日の短期日であったが、旧記、什物(仏具諸道具)
はことごとく散乱し、建物は大破したので香華も絶えてしまう落莫(物
さびしい)ぶりと相成った。
時代は流れた。安国寺6世の住職、曇叟花禅師は、名刹(ゆいしょある
お寺)が戦火の為に亡んでゆくのを遺憾に思い、大永年中(1525年ごろ)
に草庵を建て禅刹(禅寺)としたのであった。
それより時代はうつり、天正3年(1575)のこと、足利15代将軍の義昭
は、織田信長に京都を追い出され、諸国を流浪の果て流れついたところ
が鞆の小松寺であった。
慶長年中(1610年ごろ)に久留米の梅林寺第2世の湘山玄澄が、当寺を
再興して梅林寺と併せ守った。
貞享2年(1685)に渡守神社を再建するとき、寺の地所の大半を社地に
提供したので往時の盛況の跡は今は偲べない。
本尊の阿弥陀仏は、水野勝成が回収して同家の菩提寺(賢忠寺)の本尊
にされたので小松寺には両脇士観音勢士のみとなった。
寺庭に重盛手植の松と伝えられた老松が、幹周三米あまり、根本より
二幹に分れ、屈曲して地に垂れ、恰も平家の滅亡を無言に示していたが、
昭和三〇年代の大風によって八百歳に近い樹令を支え切れず折損し
遂に枯死した。
当時はその根本を磨いて庫裡の玄関に寺宝の一つとして飾っている。
尚、墓地に風変りた墓標がある。
それは琉球の貢使の従者で向道亭という者の碑である。
寛政二年(1790)十月十四日に入朝の途次、鞆で病死したので福山藩は
鞆奉行や町の長老に命じて石塔を建てさせ、範の儒者、山室如斉に碑文
を書かせたという。
以上が小松寺八百年の歴史である。
試みに本堂に向い。寺庭に逼う残る一枝の松を見るがよい。少なくとも
歴史に興味を抱く者には、寿永の年の源平の相剋と、南北両朝時代の
戦乱の世相が脳裡に去来することであろう。